英国小説研究同人の廣野由美子先生が、桒山智成先生とコラボした本が出ました
廣野由美子(ひろの ゆみこ)・桒山智成(くわやま ともなり)著
『変容するシェイクスピア ーラム姉弟から黒澤明まで』
筑摩選書249 筑摩書房 2023年
出版社による紹介文とこの本の内容↓
元々は舞台の台本として書かれたシェイクスピア作品は、いかに形を変えて世界に広まったのか? 児童文学や映画等、翻案作品を詳細に分析し、多様な魅力に迫る。
この本の内容:現在、英文学の代名詞として語られるシェイクスピア。元々は舞台の台本として書かれたその作品は、後世の創作家たちによっていかにして新たな息吹を吹き込まれ、世界に知られるようになったのか?『高慢と偏見』『大いなる遺産』などの英語圏文学、ラム姉弟による児童文学『シェイクスピア物語』、ローレンス・オリヴィエ、黒澤明による映画など、時代と地域を超え、姿形を変えた作品の数々を分析し、名作の知られざる魅力に迫る。
目次↓
はじめに
序章 小説の中のシェイクスピア―『高慢と偏見』『大いなる遺産』『赤毛のアン』ほか 廣野由美子
1 小説に現れたシェイクスピア
2 シェイクスピア、二〇世紀の小説世界へ
第1章 劇場の中のシェイクスピア―『ロミオとジュリエット』 桒山智成
1 シェイクスピアの台詞と劇場
2 シェイクスピアの台詞とライブ上演の感覚
3 シェイクスピア作品の重層性
第2章 子供の世界のシェイクスピア―ラム姉弟の『シェイクスピア物語』 廣野由美子
1 ラム姉弟の人生と文学活動
2 劇から物語へ
3 メアリの喜劇とチャールズの悲劇
第3章 映画の中のシェイクスピア―『ヘンリー五世』『蜘蛛巣城』 桒山智成
1 ローレンス・オリヴィエの『ヘンリー五世』
2 黒澤明の『蜘蛛巣城』
あとがき
引用・参考文献
まず、この本を読んだ私(川崎)の第一の反応は
この本で扱われている作品を
読んだり観たりしたくなったこと
次に、研究者として面白かったのは
同じ作品を違うジャンルに移しかえるときの工夫の具体例
そして移しかえる時に、どんな工夫が必要か、または可能か、を知ることで
そのジャンルの特色や、移しかえた時代の特色、さらに作者の個性がわかること
例えば、第2章では、メアリ・ラムとチャールズ・ラム姉弟が
シェイクスピア作品を児童小説にした『シェイクスピア物語』
(Tales from Shakespeare, 1807)を、扱ってるんだけど
芝居の台本を小説にすると
語り手を設定できる
または、語り手を設定せざるをえなくなる
そうすると、例えば、台本より抽象的に、筋書きの一部をまとめることができる
または、まとめざるをえなくなる
そのまとめかたに、当時の価値観とか、作者の価値観とか、小説の慣習とかを入れられる
または、入れざるをえなくなる
さらに児童向けだから
子どもに読ませたくないものを排除したり
子どもに教えたいことを入れるように工夫できる
または、せざるをえなくなる
という感じで、小説と戯曲の両方の特徴と
18世紀後半から19世紀前半の子ども観
さらにはラム姉弟の、より個人的な価値観が
見えてくるのが面白かった
小説は、登場人物が口にする台詞を、直接話法で入れることもできる
ラム姉弟も、シェイクスピア作品に出てくる有名な台詞を
直接話法で引用してる
例えば、『ロミオとジュリエット』の
「ああロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」とか
反対に、ラム姉弟は、超有名な台詞を、省いてもいる
どの台詞なのか、なぜ省いたのかについては
119から123ページをお読みくださいね
ちなみに、「ああロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」
という台詞は、論理的には、間違っているそうです
私は小さい時にテレビで見て、そのまま受け入れて
論理的にどうかなんて、考えたこともなかったから、結構びっくりした
これについては、54から55ページをご覧ください
この本の第3章「映画の中のシェイクスピア」では
ローレンス・オリヴィエ監督・主演の『ヘンリィ五世』(1944)と
黒澤明監督による『マクベス』の翻案『蜘蛛巣城』(1957)を
解説してるんだけど
これがめちゃくちゃ面白い
読んだ人は、『ヘンリィ五世』と『蜘蛛巣城』を観たくなること必至
二人の監督が、どれほどの意匠を凝らしているかが、よくわかるから
例えば、原作の第3幕第1場で、ヘンリーが
「もう一度、突破口へ、親友諸君、もう一度。
あるいはわれらイングランド人の死体を重ねて、穴をふさげ。」
と言うところ
オリヴィエの映画では
最初の「もう一度」で、馬上のヘンリーは正面を向いて
画面手前の兵士に語りかけ
「突破口へ、親友諸君」で、画面の右に動き、画面から出ていく
そして二度目の「もう一度」で、次の画面の左から入ってきて
右へ少し動いた後、また左へ戻り
引用の終わりで、そのまま画面から出ていく
ヘンリーが右に、それから左に左右に動く二つの映像は
類似した画面の繰り返しが、「もう一度」という言葉と連動しているそうです
すごい、そんな工夫してたの?と、この例一つで驚いた私は
DVDを持ってたので、さっそく観てみた
でも、動体視力が弱いのか、速すぎて、一回じゃよくわからなかった
第3章は、この「もう一度」の場面のような、ミクロレベルの意匠の数々から
黒澤が、原作を大胆に改変することで
原作が持つ「意表を突くが、腑に落ちる」という終わり方を
かえって忠実に再現しているといった、マクロレベルのことまで
ずらーっと書いてあって、スリル満点です
映画を観てたら、原作も読みたくなり、『ヘンリー五世』
(小田島雄志訳、白水uブックス、2013年、電子版)を読みました
この版は以前読んだことがあったけど
その時より、ずっと味わい深かった
ガワー(イングランド)、フルーエリン(ウェールズ)
マックモリス(アイルランド)、ジェーミー(スコットランド)が一緒に話すところでは
それぞれの出身地の訛りを、ちゃんと訳し分けてありますね
原作では、フルーエリンがウェールズ訛りで
「Jesu」(イエス・キリスト)と言うのを
「Cheshu」と表記したりしてるけど
全体として、英語にあまり違いはない
舞台で発音を変えれば、観客には十分わかるのでしょうね
原文は、こちらを参照しました。何版なのかは、よくわからない↓
「Cheshu」がウェールズ訛りであることについては、こちらに情報あり↓
お国訛りに加え、キャサリンがフランス語混じりの英語を話したり
ヘンリーが片言のフランス語を話したり
『ヘンリー五世』は、音声的にもカラフルな作品だったのですね
地政学的なものの反映と思うと、複雑な気持ちになりますが
それはともかく、舞台で、英語で観て(聴いて)みたくなりました
少し脱線しましたが、これも『変容するシェイクスピア』の影響
ということで
皆様もぜひ読んでみてくださいね
by 川崎